本校の校訓である「三敬主義」は「他を敬し、己を敬し、事物を敬す」ですが、皆さんはなぜこの順番になっていると思いますか?高等部3年生に考えてもらいました。いろいろな考えがあることが分かりました。

最も多かったのは、大切さの順番を示していると考えた人たちです。

人は誰も一人では生きていけない。生きている間は必ず誰かの世話になっている。家族であったり、先生であったり、クラスメートであったり、周りの人に支えられて生きている。だから、まずは支えてくれている人たちに感謝し、敬意を払わなければならない。その次が支えてもらっている自分自身への敬意。自分自身を大切にしなければ周りに流されるだけで個性がなくなってしまう。自己への敬意は必ず必要である。こうした人間への敬意と比べるとモノやコトへの敬意の重要性はそれらに次ぐものになる。

同様の内容をこのような形で述べた人も多くいました。

自己への敬意を最も大切なものだとすると、どうしても自己中心的になってしまう。自己中心的にならないためにも、他者への敬意を第一に置く必要がある。

また、大切さの順番だとしながらも、他の人とは違った面白い考え方を示してくれた人もいました。

「他」と「事物」があって初めて「己」は生きていくことができる。したがってまず「他」と「事物」を敬さなればならず、そうして初めて「己」も敬することができる。大切さの本来の順番は「他」「事物」「己」である。それが「他」「己」「事物」の順番になっているのは、「己」は「他」と「事物」に囲まれているおかげで存在していることを示すために、あえてこの順番にしたのである。

次に多かったのは、修得される順番あるいは修得しやすい順番を示していると考えた人たちです。

私たちは常に他人と接している。他人の良いところや悪いところは良く分かる。良い点は見習いたいと思うし、良いことをしてもらえば自然と感謝の気持ちも生まれる。だから敬意をもって他人に接するのは比較的簡単にできるようになる。自分で自分自身のことを知ることは難しいが、他人のことが分かるようになると、振り返って自分自身のことも分かるようになるし、他人が自分にどう接するかによって自分自身のことがより理解できるようになる。つまり他者への理解や敬意を経て、初めて自己への理解や敬意が生まれる。モノやコトへの接し方にはその人の人間性が出てくる。自らの人間性を理解し、敬意を持つことができて初めてモノやコトに敬意をもって接することができるようになる。

これも全く逆に、修得の難しい順にならんでいると考えた人もいました。

モノやコトは人ではないので客観的に接し観察することができる。したがって理解したり敬意を持つのは比較的簡単である。自分自身のことも、自分で感じ、考え、行動していることなので理解しやすい。最も難しいのは他の人がどう感じ、どう考えていることを理解することである。他者を理解し敬すためには自己を理解し敬さなければならず、自己を理解し敬すためには事物を理解し敬さなければならないのである。

実はここにまとめきれなかった解釈がまだいくつもあります。それぞれが真摯に考えてくれた結果だと思います。早実生の思考の柔軟性と多様性がよく表れています。

最後に一つだけ、私自身が想像すらしていなかった答えを記してくれた人がいましたので、それを紹介しておきます。

「三敬主義」を声に出して読むと「他(た)を敬(けい)し、己(おのれ)を敬(けい)し、事物(じぶつ)を敬(けい)す」になる。みごとに五、七、七になっている。「己(おのれ)を敬(けい)し、他(た)を敬(けい)し、事物(じぶつ)を敬(けい)す」では七、五、七となりしまりが悪い。

冬休み中にあらためて「三敬主義」について考えをめぐらせてもらえたらと思います。この問いには正解はありません。自由に考えてみてください。

原載:『早実通信』200号(2019年12月)